シナリオ論

今日来た妊婦さんに、「人の運命にはシナリオがある。これは以前学んだことだが、東大で26組の一卵性双生児の経過を研究した。一卵性なので一つの卵を2分割、全く遺伝子が同じである。片方が東京に住んでいてもう片方が大阪にいるとする。年齢が同じだから恋愛時期や結婚、出産時期がかぶる話はわかるが、片方が交通事故をするとほぼ同じ時期に相手も事故に遭うという。そして久しぶりに会うと殆ど同じ服を着ているという。興味を持つ時期も同じ、まるでシナリオがもう出来上がっていて、ただその道を進んでいるだけのようだ。そしてそのシナリオを決定しているのは先祖。」という話をした。例えばある夫婦のご主人が東大卒、奥様がピアニストとする。子供が生まれればなんて言うだろうか。まずはピアノを習わせるのではないだろうか。子供がエレキギターをやりたいと言っても、「それも良いけど、ピアノはとても大事。」などと言って習わせるのではないだろうか。そして大きくなって受験期、子供が慶応を受けたいと言ったら何と言うだろうか。「お父様が東大なのだから、東大も受けたら。」と言うのではないだろうか。決して親がすべて子供の運命を決めているわけではないが、大分親によってレールを引かれると思う。我々の世界でも高名な先生の息子には、「あなたのお父さんは偉大な治療家だ。どうして後を継がないの?」と言うだろう。大きな組織を持っている場合など側近が言い続けるだろう。多少子供が反発しても言い含められてしまうかも知れない。しかしその親を選んだのは本人である。結局、シナリオがもう出来ている。宿命は変わらないが、自分の努力で運命は変えられると思う。その中で脈々と生きているのがシナリオ論である。仕事柄、多くの人の身体や運命を見てきた。年数が経てば経つだけこのシナリオ論は確信に変わった。若い方でシナリオ論を嫌がる方はいるだろう。運命が決まってしまっていてつまらないと感じるのであろう。自分の人生は自分で決めたいと思う人はいるだろう。それはそれでいいとして、運命開拓には想像を絶する努力と強運、挫折しない心と夢を強烈に描き続ける力など必要なことは間違いない。いつからでもそれは出来る。人生を振り返ったときに、「こういう道を歩めて良かったなぁ。」と言いたいものである。

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