伊勢・志摩の旅

今まで何度かお伊勢さんに行こうとして縁がなかったが、今回は休みを頂いて初めて参拝した。外宮、内宮の後、鳥羽に宿を取り志摩を巡った。翌日は真珠王で有名な御木本幸吉翁の記念館を見ていたら、足が止まってしまった。翁は代々うどんの製造販売の家系に長男として生まれ後を継いだ。うどんだけでは中々成功できないと行商もしながらある時横浜に行って、天然真珠など志摩の特産物が貿易商品になりうることを確信して海産物商人となる。そこから苦心惨憺の結果、アコヤ貝の養殖真珠を世界で初めて成功させ、世界に販売網を拡げた。渋沢栄一とも親交があり、エジソンと初めて会ったときは、「私はダイヤと真珠は出来なかったが、御木本さんが真珠を作ってしまったのは世界の驚異です。」と言われた後に、「あなたは発明界の夜空に輝く月、私は数多い星の一つにすぎません。」と答えている。またニューヨークでは野口英世と会い、「希望のある人はどこか輝かしいものをもっている。」と感想を語り、若者には「良い案を出すためまずは悪い案」「ホラ吹きも実行すれば真となり」などと激励したという。私生活では奥様に先立たれたが、明治天皇に拝謁した時に、「世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます」と有名な言葉を残している。また「ご婦人の病気に首飾り、ヒステリーには一等の妙薬」などの語録もありユーモアたっぷりだ。そして1番気を使われたのはご自分の健康で、「朝は三、昼二で夜一(朝をしっかり食べて夜は量を少なめ)で胃を休め」といかに胃腸に負担をかけないかを実践し、「鶴のよう食を選んで大食せず」「僕は胃腸と仲がええ」と言っている。「旨いもの二箸残し腹八分」など生活は質素だったという。そして、「健康に気分転換はかかせない」とも言って、運動に関しては「毎日の欠かさぬ運動四股を踏む」と言っている。毎朝冷水を浴びるのが日課で相撲取りのように身体を鍛えた。そして晩年は、「道半ば九十過ぎて夢多く」「わしは日本中を公園にしたい」と夢を語ったいう。記念館の後、「天岩の戸」を訪ねたら、「御木本幸吉も天岩の戸の崇敬者で参道整備費用を寄付した」と書かれていた。そして晩年の座右の銘は「智(人生を切り開く知恵)・運(やれるところまで努力する)・命(長寿に恵まれる)」だった。翁は96歳で天寿を全うするが、葬儀は自らの出資と助言で建設された鳥羽小学校校舎で行われた。記念館に繋がっている連絡橋には多くの小学生の絵が飾られていて、昔からの夢だった、「小学生の手本になるため努力する」を実践され、いかに子供達に深い愛情を注いだかを肌で感じた。今回の学びはお伊勢さんのお陰と改めて感謝をした。

■御木本幸吉記念館
 http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/know/memorial.html

■御木本幸吉語録
https://note.com/hisatune/n/n28c23b98f2ea
https://www.a-inquiry.com/mikimotokoukichi/