目に見えないところの努力

先日、初めてお伊勢さんをお参りしたが、資料館を見学していて年間1500もの儀式があることや、式年遷宮に関わる職人達の技術継承の話、日に2回天照大神に食事を欠かさず用意していることなどを知って、「我々の目に見えないところでこんな事が行われていたのか」と感じた。
これは歌でも絵でも演技でも何でもそうだが、我々は表現されているものを見ているが、その方達が裏でどんな努力をしたかはわからない。
私は個人的に音楽が好きで夜寝るときによく聞いているが、何故か同じ方の同じ曲ばかり聴いてしまう。同じ曲でも人が変わるとこんなに違うものかと良く思う。
結局その人がどういう生き方をして、どんなことを考え、何をしようとしているのかによって作品は極端に変わってしまい、身体の中にあるものしか外には出ない。我々の世界も同じで以前ある先生から、「自分では技術に問題はないと思っているのだが何故か患者が来ない。感じたことを教えて欲しい。」と言われ、技術を受けたら治療が何とも表面的で解剖の知識はあるのだろうが、実際にはご遺体の解剖はやっていないだろうなぁとすぐにわかった。幸いなことに私は解剖実習を700時間ぐらいこなしているので、筋肉の厚みや皮膚の硬さ、神経の感覚や血管の感じなど手が覚えている。だから体表から刺激するときも、「この筋肉の下の神経はこんな硬さだったから、この角度でこんな感じでやれば刺激は届くだろう。」と思ってしまう。結局この目に見えない部分の学びの差が技術に出る。以前レオナルド・ダ・ヴィンチが馬の彫刻を作るときに馬を解剖して作ったという話を聞いたが、他の作者に比べ明確に筋肉の感じが違う。何とも言えない躍動感がある。この学びの差が作品に出ている。そんな事を感じながら内宮をお参りして、多くの方がお伊勢さんに魅力を感じている理由の一部がわかった。