快適が当たり前

以前子供の卒業式で小学校の体育館に行ったらあまりの寒さに驚いた事があった。
「こんなに寒い中で昔はやっていたんだ。」
夏などはクーラーもなく、涼めるのが「職員室」と「図書館」だった。
運動部の部室は汗をかいたまま着替えたりするので臭かった記憶がある。
自宅に初めてガスストーブが入ったときの暖かさは今でも忘れられない。
暖かさが石油ストーブと全く違う。
コタツもあったが、今の部屋の暖かさとまるで違う。
昔は部屋の中にいても寒かった記憶がある。
食べ物も昔は寿司は高級品で、「今晩は寿司」と言われただけで喜んだ。
数ヶ月に1度の外食で、「エビフライ」などは超高級品で少しおめかしをしてレストランに行った。
今や学校は冷暖房が当たり前で温水プールもある。
運動部の所にシャワーもあると聞く。
部屋も床暖があるお宅も多く、部屋で寒い思いはしない。
寿司も安い値段で食べられ、子供に「今日は寿司」と言っても喜ぶ事は少ない。
外食も今は電話をすれば何でも届けてくれる。
昔に比べて快適が当たり前になったが、これは医療の世界でも言える。
手術も昔は大きく切っていたのが今は数cm開けるだけ出来る。
同じ手術でも数週間の入院が2-3日で帰れてしまう。
薬も昔みたいに、「○○の痛みを止めるのは大変なんだからそれで胃の一つぐらい取っても仕方がない」とは言わなくなった。
しかしあまり快適すぎると、人は何かを忘れるのではないだろうか?
おそらくそれは、「生きている実感」だと思う。
朝から晩までほしいものが瞬間的に手に入り、手に入れるために苦痛がない。
不便を感じなくて当たり前。
確かに便利だが、喜びも少ない。
やはり人の生活には真夏の炎天下で汗をかきながら働き、木陰で飲む冷たい水のおいしさに感動する心が必要だと思う。
オリンピックは終わったが、選手の決して快適を求めない方達の汗に感動するのは、我々の生活が快適すぎるからだと思う。