いつ役に立つかわからない

病院勤務時代に都立の病院にとても優秀な整形外科の先生がいて、月に一度特別診察のために来て下さった。その先生が来るまでに難しい患者を貯め、その特別診察時に一気に問題を解決して頂くことが恒例となっていた。だから普段難しい患者が来ても、「もう少しで特別診察があるから」と少し気が楽であった。その後病院を辞め、ある時に家内が肩を痛め、その先生のことを数年ぶりに思い出した。恐る恐る診察に伺うとこちらのことを覚えていて下さり、丁寧に診察をして頂いた。日々の生活の中でも、今直面していることが、何時何処で誰にどんな形で役に立つのかわかればこんなに楽なことはない。今日来た患者も、「20年前にお世話になった先生のことを思い出して連絡を取った。」と言っていた。ここが修行のしどころではないかと思っている。仕事で何かきついこともやがては何かの役に立つかもしれない。人間関係でもめた時も誰かの役に立つかもしれない。場合によってはただ悔しい思いをしただけかもしれない。それがわからないから修行だと思う。昨年度私も年で、脊柱管狭窄症を患ったが、その体験のお陰でどれだけ股関節や解剖を学んだかわからない。その時は治りたい一心で色々と治療を受けていたが、ほぼ完治してしまうと、私がこういう仕事という事もあるが、体験したことが次から次に仕事に活かせる。当時は人の役に立とうと思って治療を受けていたわけではない。自分の味わったことがやがて、人の役に立てば良いなぁぐらいの感じて、修行と捉え取り組めば、「何で今、こんな事を味あわなければならないのか?」という不満も減るのではないだろうか。

image_print印刷する